教えのやさしい解説

大白法 527号
 
権実相対(ごんじつそうたい)
「権実相対」とは、五重相対(ごじゅうそうたい)中の第三に位置する相対判で、爾前(にぜん)の諸権大乗経と法華経を比較し、権経(ごんきょう)は方便のため劣り、法華経は真実にして勝れていると判釈(はんじゃく)することを言います。
 「権実」の「権」とは仮(かり)のもの、方便(ほうべん)の意であり、法華以前の四十余年の諸経すべてを指し、「実」とは真実の意であり、法華経を指します。
 天台は法華経で説かれる円理(えんり)と爾前経の円理との相違を挙げ、そこに勝劣浅深(しょうれつせんじん)を判定しています。つまり、爾前の円教も法華経の円教も、一往(いちおう)、円の理(り)においては同じであるといえますが、再往、権大乗経の円教は帯権(たいごん)の円といって、通教(つうきょう)・別教(べっきょう)等の麁法(そほう)・権教が付随して説かれているので(阿含経には円教は説かれていない)仏の悟りである真実の円妙の理は顕れていません。これに対し法華経は純円一実にして三諦円融(さんたいえんゆう)の理が説かれ、法界の真実相が顕されています。ゆえに爾前経は劣り、法華経は勝れていると判定するのです。
 日蓮大聖人は、当時の権実雑乱(ごんじつぞうらん)の仏教界を糾(ただ)すため、天台の権実判に立って次のような御指南をされています。
 すなわち『開目抄』に、
 「華厳(けごん)乃至般若(はんにゃ)・大日経等は二乗作仏を隠(かく)すのみならず、久遠実成を説きかくさせ給へり。此等の経々に二つの失(とが)あり。一には『行布(ぎょうふ)を存するが故に仍未だ権を開せず』と、迹門の一念三千をかくせり。二には『始成(しじょう)を言ふが故に曾て未だ迹を発せず』と、本門の久遠をかくせり」(御書 五三五)
と、爾前権経に「二つの失」があると御指南されています。
 第一の失は、爾前経は「行布を存する」ということです。「行布」とは行列配布の義で、爾前権経に説かれる修行には段階・次第があるということです。したがって、権経は九界と仏界に差別があり、融(ゆう)じていないので二乗の成仏は明かされません。
 しかるに法華経は、二乗の成仏が許されることにより菩薩・凡夫や他の九界の衆生の成仏が可能となり、十界互具・百界千如・一念三千が明かされるのです。
 第二の失は、「始成を言ふが故に曾て未だ迹を発せず」とあるように、爾前権経は始成正覚の仏の所説です。仏の寿命が永遠でなければ、衆生の成仏も決定しません。しかし、釈尊は法華経本門において始成正覚の迹(しゃく)を打ち払い、久遠実成の本地を説き明かしています。これによって、始成正覚に執着していた所化大衆の認識を打ち破り、久遠の仏であることを示されました。そして、仏の常住の生命の開顕により、一切衆生の個々の生命の永遠性とその身に具わる成仏の種子も顕れたのです。
 このように大聖人は、法華経の二乗作仏と久遠実成が諸経に勝れていることを説かれていますが、これはいわば「本迹相対」「種脱相対」へ進む序説(じょせつ)としての法門であり、大聖人究竟(くきょう)の法門ではありません。
 しかし、「権実相対」は禅・念仏等を破折するための大事な法門です。私たちはこの法門をよく理解し、今後ますます諸宗の邪義を破折してまいりましょう。